2005年03月18日

皆さんがお馴染みの諺にも、実はいつの間にか意味が変異しているもの、
余分な意味が付け加えられたもの、逆に意味が削られたもの、
そして、全く意味が変わってしまったもの等、様々なものがあります。

今回はそういった、意味が変容してしまった諺の一つを、紹介。
 
 雑学:弘法にも筆の誤りの誤り

弘法にも筆の誤り / 弘法も筆の誤り

「かの書の大家、弘法大師ですら書で間違いを起こしたことがある。
従って、どんな人間でも間違いは起こすもの。」
 
このあまりにも有名な諺も、実は本来の意味から変容したものなのです。
とは言うものの全く意味が変わったわけではなく、意味が省略されたタイプの変容。

 

空海(=弘法大師)は、遣唐使として唐に渡る以前からすでに書の腕前は大したもので、
嵯峨天皇橘逸勢と並んで、三筆と呼ばれています。
 
その空海が勅命によって京の都にある
応天門に設置する額(≒掛け軸)の文字を書くことになりました。
 
応天門と書き上げ、早速設置したのは良かったのですが…
よく見ると、応天門の"応"の字、"心"の部分の点が1つ足りなかったそうです。
書の大家としてその名を天下に轟かせていた空海が、小学生並みのヘマをやらかしたわけです。
 
これが、かの有名な"弘法にも筆の誤り"の顛末………ではなく、この話には続きがあるのです。

 

間違えた額をそのまま設置した一部始終を見ていた人々はどよめきましたが、
空海は顔色一つ変えずに、筆を再び手にとり、
その筆をすでに設置してある額に投げ付けました。
 
人々はその行動に、空海の頭がおかしくなったのかと更にどよめきましたが、
額を見てみると、"心"の点が足りなかった部分に筆が命中しており、
見事過ぎる程に応天門の字が完成した、というのです。
 
まるでジャクソン・ポロック

 

このことから、
 
「どんな人間でも間違いは起こすもの。
しかし、弘法大師は書き直し方さえ、常人とは違う」
 
という、誉め言葉としての意味も併せ持つ諺とされています。

 

しかし、"間違ったけれど、直し方が普通と違う"なんて意味は非常に使いどころに悩むもので、
徐々に"誰にでも間違いはある"という意味のみに落ち着いたものと思われます。

 

空海が間違えた部分は応の字の一番上の点だという説も。
しかし、間違えた部分が"心"である方が話的にグッと来るので、SABlogでは心にしています。

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